綴-tuzuri-

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【コラム】H29年大判 NHK受信料訴訟について紐解く

平成29年12月6日、まだ記憶に新しい大法廷判決だが、数ある争点の中から立法権ひいては三権の闇とも伺える、非常に不可解な点が残されている。

 

今回はそんな不可思議な最高裁判決の一部を取り上げたい。

 

右の判決において被告は勿論の事、国民全体の意識感情からはかけ離れた意見だったとはいうまでもない。

主立った争点としては、憲法13条,21条,29条違反による「権利侵害」である。

最も注目されたのは21条による「知る権利」に対する解釈問題とされたが、最高裁は何故か権利侵害思考を採らずに制度的思考に拠った判旨を出した。

最高裁は、電波の有限性の制度を立法権の裁量に依拠することを前提とし、放送法では公共放送と民間放送とでの二本立て体制により、各々長所を補充し合う関係に重きを置き、互いに他を啓もうし放送により国民が十分福祉を享受することができるように図るべく、その一方を担うのがnhkとし、制度の存在の重要性を説いた。

加えて、「受信設備設置者の理解を得て,その負担により支えられて存立することが期待される事業体であること……原告が任意に締結された受信契約に基づいて受信料を収受することによって存立し……相当な方法であ」ったと支払いの強制についての契約の自由に対する制約の合憲性を唱えた。

ここで、最高裁が唱える契約締結の自由に対する制約については些か苦しく感じざるを得ない。

何故なら、権利侵害思考として考えるならば、情報摂取の方法としての「放送を享受する行為」について著しく不合理な制約といわざるを得ず、民主的多元的な基盤をうんぬんかんぬんといった話しは所謂限定解釈によることになるからである。

およそ政策的観点からみるとすれば、まだ素直な解釈にもなろう。

岡部裁判官の補足意見としては「情報を摂取しない自由」を含むと消極的な自由を提唱しつつ権利侵害思考を採りながらも、放送法64条1項は違憲でないとした。

ある程度立法裁量が認められている中、このような司法権の限界を垣間見る判決は、立法府を中心に政府と何かしらの繋がりがあるのかもしれない。

放送法が制定されてから半世紀以上にも渡り、時代の多様化が進む一方で、これといった立法措置がなされないまま制度だけが踏襲されていること自体が、国民の感覚との乖離に繋がっているようにも思える。

 

限定解釈や拡張解釈、ひいては放送法改正による受信料の真の公平さを実現できる時は、もう到来しているはずです。