綴-tuzuri-

雑記から論文、書評やその他諸々気の向くままに綴ります。コラムやエッセイ中心かも。

【エッセイ】chapter 異世界

*曲がるならとことん曲がれ

 

みんなが進むであろう一本道。

時々、そんな道からあらゆる方向へ曲がってゆく人々がいる。

道草くってる人。引き返す人。目的地が全然違う人。

淘汰への期待と好奇心から、周囲からは奇異な目に晒され、一見『変わり者』としてラベリングされる。

そんな環境下にも関わらず、自分の目的地をただひたすらに歩くそいつらを、俺は最高にかっこいいと思っている。

曲がるなら、中途半端に曲がるな。

意思あるところに道は拓ける。

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*フルフォーカスで観る景色


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とある国のロンドンという街は、繁華街というイメージとは掛け離れる程の絶景な緑がたくさんある。

行ったことのない街、行ったことのない場所。

俺達は、なんとなく「こうゆうところ」なんて勝手に思ってる。

田舎のショッピングモールなんてってバカにしてたらえらい目みるぜ?

 

 

*強く

 

生きている限り、終わりは必ずやってくる。

どれだけ生きていた。よりも、どのように生きてきた。でありたい。
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*ありがとうの数=自分が愛し愛された数

 

愛なんてくさくって重たくって、こんな言葉、言った途端に半歩引かれるんではないか。なんて思ってやしないかい?

愛はそこらじゅうに散りばめられている。

暖かさやぬくもりに肥えてくると、そんな小さな愛にも気づきにくい。

この猫に言った沢山のありがとうは、俺が愛された数に等しいんだ。

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*想いは紡ぐ
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東日本大震災の後、宮城県石巻市がまだ復興の序章にいた頃の話し。

津波でなにもなくなってしまった広すぎる更地に、大声で海鮮物を売る現地民が居た。

広大なその更地に似合わないような活気の中、聞けばここには魚屋があったんだって。

小さな椅子に小さなテーブル、小さなおじいちゃんおばあちゃんが満面な笑みで迎えてくれたんだ。

その傍らには小さなお墓が、花と一緒に見守っている。

この一面の更地には、こんな小さなお墓が何百もあったんだ。

「少し風景は変わってしまったけどね、私達は変わらず頑張ってるよ」

東京ではあって当たり前なものは、ここには無い。

けれど【日常】を当たり前に満喫してるヤツらなんかよりも、この人達の方がよっぽど強く、そして美しかった。

 

 

*奇跡の一本松

 

奇跡の一本松って知ってる?

陸前高田市に今でもそびえ立つこの一本松。

7万本もあった松の森が津波で流されてしまった時、この松が一本だけ流されずそこに残ったんだ。

まるで、私達は終わらないって象徴するかのように。
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*大事なものは目蓋のうら

 

20代のころは、自分の可能性は無限であると信じ、色んなことをやってきた。

今でもその夢の一つ一つは最中なんだけど、なんかちょっと疲れたなって時に気付いちまった。

事情で片田舎に移住した際に、幼なじみの友人が遥々200キロ離れた先から駆け付けてくれた。

何をするでもなく、ただただバカみたいな話しをしてただけだけど、最高の居心地だった。

目に見え、手の届く大切な人達が俺にとっては一番なんだって、ハートが言っている。

政治とか経済とか、司法とか行政とか、世界平和とか戦争撲滅とか、問題は考えるだけあるけど、そんなものは二の次でもいいんだ。

そいつにさ、こんな所に来てもなにもないぜ?って笑いながら言ったんだけど、「お前が居ればそれでいいんじゃない?」だってさ。

GLEAT!!
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*心は繋がる

言葉が通じなくたって、笑顔で人は喜びを感じることができる。

金持ちだとか貧乏だとか、男だとか女だとか、考えるのめんどくせぇ時はとりあえず笑っとこうぜ。

象だって笑ってる。


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*音は楽しく
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人類は数々の奇跡とも言えるようなものを産みだしてきた。

音楽だってその一つさ。

普段の日常に、音楽といったテイストを少し加えるだけでハッピーな気持ちになる。

このハッピーな気持ちが俺にはとても大切なんだ。

楽器がなければ声という楽器を使って歌を歌えばいい。

拍手という音だって、人はハッピーになれるじゃないか。

【書評コラム】MEGUMI著〜キレイはこれで〜

昨今、男性も化粧をする事が日常化していると聞き、驚きを隠せない。

そんな私も、思春期の中学時代はニキビが気になり目立たなくするためにコンシーラやファンデなんかを試した事はあるが、面倒ですぐに挫折した。

 

そんな事もあったなぁと、懐かしむ傍ら、30代になってから特にエイジング関係に対して過敏に反応するようになってきた。

 

環境が変わり、自分への投資として時間やお金を少しずつ使えるようになってきたこともあって、わりかし本気で身体を作ろうと色々勉強もしてみることに。

 

そんな中、ふらっと立ち寄った本屋でMEGUMIさん(以下 著者)著の「キレイはこれでつくれます」に出会った。

さっと一時間程度で読むことができ、参考になった部分やならなかった部分も含めて、今回は久しぶりに書評をしたいと思う。

 

★参考になった部分

 

*食べた物が身体を作る

当たり前だが習慣として、そして生きていくためとして自分の体内に入れる飲食はダイレクトに自身に影響を与える。

お酒を飲みすぎたら二日酔いになるし、油っこい食べ物を過剰に摂取すれば翌朝はギトギトに悩まされる。

目に見えない血液も徐々にドロつき、血栓ができ動脈硬化を促す原因にもなるだろう。

著者は若玄米デトックスなるものを半年に一度のスパンで10日間実施するらしく、云わば「調整」をかけるらしい。

栄養士が推奨するカロリー管理においては、一週間が基準とされるらしく、一日一日の栄養摂取というよりも、一週間均して不足しているか、過剰摂取していないかを管理するといったものだ。

 

厚生労働省が推奨する一般成人の一日の野菜摂取量は350g。

350gというと、中々の量である。

よくダイエットや健康志向に嵌った人にありがちなのは、決まった身体に良いと言われているサプリメントプロテインアミノ酸、食材などを、まるで狂ったかのように毎回摂るという傾向にあるのだが、それは間違いともいえず正解でもないと私は思う。

【足りないものを補う】という摂り方が正しく、決して日々怠ることを許されないことではない。

実際、一日に必要なタンパク質や炭水化物。ビタミンからミネラル、亜鉛などを365日欠かさず摂ることは不可能に近い。

なぜなら人は社会に存在していて、その生活圏の中で必ず偏る一日ができてしまうからだ。

著者のこの【調整】は半年を基準に行われているらしいが、人によって無理ない【調整日】を作ることは必要なことだと思う。

 

*シートマスク最強説

よく芸能人はお金を掛けているから綺麗を保てるのは当たり前という話を耳にする。

実際それは正解でもあり、語弊でもあると私は思う。

手っ取り早くお金を掛けて手間を掛けない方法としては美容整形があるが、それはまた後に紹介しよう。

芸能人が実践している高コストのアイテムはさておき、ここでは比較的低コストで実践できるものを一部紹介したい。

著者が勧めているシートマスク(ルルルンプレシャス 2,000円程)はコスパよく、比較的一般向けな商品だなと所感を得た。

朝、夜と※毎日(ここ大事)欠かさずにやっているというこのシートマスク。

朝は洗顔後、夜は入浴後に3〜5分程顔に貼るだけ。

大切な事は、毎日やり続ける。ということだそうだ。

よくなってきたからもういいや。そんな肌に対する裏切りは、忠実に自分自身へ返ってくる。

何事もそうであるが、毎の日の積み重ねこそが全てにおいての信頼と力を得る唯一の手段ではないだろうか。

芸能人、特に女優の方々の美は、決して経済的な力のみに頼っているわけではなく、こうした日々の手間と労力によっても作られていることを実感した。

実際、人は簡単に手に入れたものは簡単に手放してしまう。

 

 

頭皮マッサージで顔をあげる

意外と効果的だったのは身体に圧を掛けるマッサージ。

これ以外にも表情筋のエクササイズなども効果は実感できるものが多いが、特に頭皮ブラシを使ったマッサージを1分程行うと自分でも実感できるほどに顔が上がり、引き締まる。

夜、お風呂に入っている時に、こめかみ周辺を痛気持ち良いくらいの圧でマッサージするのもお勧めだ。

 

 

★参考にならなかった部分

 

*美顔器『セルキュア』

正直これ自体は試していないため、効果の程は分からないが、何よりこの美顔器、高すぎる。

定価で18万以上と高級品なため、庶民には少し馴染まない感がどうしても前にでる。

しかし、女優の方々は揃ってこのセルキュアの美顔器を愛用しているらしく、機会があれば一度は試してみたいところ。

レンタル(月に一万円強)もしているため、本格的に導入を考えるならこちらから入るのがいいだろう。

レンタル期間に支払った金額分を、購入時に割り引いてくれるサービスもある(勿論購入時は新品を届けてくれる)

 

*美容医療

そもそも美容医療とは美容皮膚科と美容形成外科の二つに大別される。

大前提で言っておきたいのは、衰えやどうしようもない先天的なコンプレックス(骨格や目元、鼻など)は外科的なアプローチをしないことには変えることはできないということ。

特にアンチエイジングに関しては、どうしても日々のケアだけでは改善はされづらく、『老い』に対しての意識はどうしても払拭しきれない。

なので、別に美容医療そのものに関して否定的なわけではないことだけは言っておきたい。

では、なぜ参考にならなかったか。

それはやはり費用面だ。

月一の点滴で5万円や、定期的なハイフ(切らない糸リフト)で20万とか、庶民にはやはり馴染まない。

私自身、美容医療に関わったことは脱毛くらいで、まだどれほどの効果があるのかなどは未知の世界だが、自分の身体に顕著な変化を及ぼすに加え、自由診療な分保険も効かず費用も高額になるケースも多いため、充分にカウンセリングや下調べをした上で施術する事はマストだろう。

大手の美容外科は、あれもこれもとオプションを付けて、高額な施術を提案してくることも珍しくないと聞く。

知識は力なり。カウンセリングを行う際も、しっかりと下調べをしてから受けると、より充実したカウンセリングが期待できる。

 

 

以上でざっとした書評は終わりになるが、いかんせん女性向けの情報本なので、男性には参考になる部分は少なかったようにも思える。

メイクについてなど、女性ならではの役立つ情報も沢山載っていたので、気になった方は一度手に取ってみては如何だろうか。

 

いずれにせよ、いつまでも若く、自信を持った自分でいたいと実感させられる良本でありました。

【エッセイ】幼期

久しぶりの投稿です。

一周ぐるりと回って、振り出しに戻った感じ。

ある友人が書いたエッセイをきっかけに、自分自身の幼少期から青年期までをふりかえってみたいと思い、久々に筆を取る。

 

小学生の頃は控え目にも社交的とは程遠い、物静かな少年だった。

今でいう「陰キャ」みたいなものだ。

写真撮影なんかでは中央列の端から3番目辺りを狙って陣取り、なるべく目立たない生活をしていた。

特定の友人とだけ慣れ親しみ、争いを嫌い、人の顔色を伺うのが少し得意な陰キャ

先生にはあまり好かれないタイプだ。

そんな中でも、人一倍秘めていたものが「競争心」と「我の強さ」である。

これは先天的な性格なのだと後々分かるのだが、この頃は特に好きなことでは負けることが嫌いであり、自分の意見が通らなければ拗ね散らかす絵に描いたような子供だった。

ある日、友人の友人F君と喧嘩をした時、顔に張り手をくらい泣かされた。

どうしても悔しい気持ちが拭えず、翌日の朝にF君の背中向けてドロップキックをかまし、大泣きさせたのは今でも鮮明に覚えている(当然、後に先生からこっぴどく怒られ泣かされた)

図工の時間の時、色々な材料を使って動物を作成する授業があったのだが、犬を作っていた私に先生がアドバイスをくれた。

そのアドバイスが全然納得出来ず、自分の犬像を力説し、ウンザリされた。

ある日、助走なしでどこまで遠くからドブを飛び越えられるか遊びをしていた際、上級生の飛んだ距離など超えれるはずもないのに果敢にチャレンジし、ドブに嵌って泣いた。

いつの日も、自分の殻に閉じこもっては気に入らないことがある度に反応し、自分の中に押し殺したり周囲に迷惑をかけたりと、中々に忙しいヤツだったな、と振り返り思っている。

 

中学に上がり、転機が訪れる。

入学して2ヶ月程経った時期、同じクラスの陽キャまっしぐら女子に気まぐれでジョークを言ったら大ウケ。

なんだかそれがとてつもなく心地よかった。

人と関わる事を極力避けてきた人生だったが、人と新しく関わることで得る喜びをその陽キャ女子は教えてくれた。

その事がきっかけとなり、色々な人間に対し、積極的に関わりを持つようになっていった。

そこで当時の友人Yと気が合い、影響される。

 

染めた髪の毛を整髪料で塗り固め、眉毛を剃り、制服のボタンをバカバカ開け、ポケットに手を突っ込みながら歩く私。

生活指導の先生は、まるで待ち合わせをしているかのように校門で私を待つ。

私は全く違う門から入る。すれ違いである。

 

周囲からは正気の沙汰ではないと奇異な目で見られる日々であったが、これが俺だ!と言わんばかりに、全く気にしなかった。

現代では絶滅危惧種とされようDQNを道端で見掛けると、今でこそ微笑ましく感じるが私の時代は違った。

明らかに痛い奴であり、関わりを持ちたくない不動のBEST1であった。

 

そんなパッパラパーが堂々と校内を歩いている姿を、プライドの塊のような上級生は黙ってない。

ある日10人くらいの上級生に呼び出されたが、行っても居なかった。

教育委員会に厳しく躾られた教師達は、逸早く情報を入手。

どこで聞いたのか。いつの時代でも、ゴシップという甘い蜜には虫が群がる。

半ば強制的に話し合いをしろとの事で会議室みたいな場所へ連行された。

10人が20人に増えていた。

 

昔から敵を作りやすい性格なのか、一旦仲良くなると四六時中一緒にいることが多かった。

夜は改造された原動付き自転車を乗り回し、気に入らないことがあれば突っかかっていく。

今思えば、中学、高校時代が一番自由に、好き勝手に生きていたかもしれない。

 

まじめな話しをすると、自由に生きることは理想であり、生物としての本能的な目的でもあると私は思う。

ただ、決して他人に迷惑は掛けてはいけない。

社会人が大好きな単語のひとつに責任という言葉があるが、自由に生きることは、責任を担うということでもある。

 

ただただ救いようもないアホタレだった私は、将来の進路なぞ考えもしたことがなかったのだが、またまた転機が訪れる。

 

高校生活は、私という人物を形成する土台になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また気が向いた時に、高校編書きます。

【コラム】H29年大判 NHK受信料訴訟について紐解く

平成29年12月6日、まだ記憶に新しい大法廷判決だが、数ある争点の中から立法権ひいては三権の闇とも伺える、非常に不可解な点が残されている。

 

今回はそんな不可思議な最高裁判決の一部を取り上げたい。

 

右の判決において被告は勿論の事、国民全体の意識感情からはかけ離れた意見だったとはいうまでもない。

主立った争点としては、憲法13条,21条,29条違反による「権利侵害」である。

最も注目されたのは21条による「知る権利」に対する解釈問題とされたが、最高裁は何故か権利侵害思考を採らずに制度的思考に拠った判旨を出した。

最高裁は、電波の有限性の制度を立法権の裁量に依拠することを前提とし、放送法では公共放送と民間放送とでの二本立て体制により、各々長所を補充し合う関係に重きを置き、互いに他を啓もうし放送により国民が十分福祉を享受することができるように図るべく、その一方を担うのがnhkとし、制度の存在の重要性を説いた。

加えて、「受信設備設置者の理解を得て,その負担により支えられて存立することが期待される事業体であること……原告が任意に締結された受信契約に基づいて受信料を収受することによって存立し……相当な方法であ」ったと支払いの強制についての契約の自由に対する制約の合憲性を唱えた。

ここで、最高裁が唱える契約締結の自由に対する制約については些か苦しく感じざるを得ない。

何故なら、権利侵害思考として考えるならば、情報摂取の方法としての「放送を享受する行為」について著しく不合理な制約といわざるを得ず、民主的多元的な基盤をうんぬんかんぬんといった話しは所謂限定解釈によることになるからである。

およそ政策的観点からみるとすれば、まだ素直な解釈にもなろう。

岡部裁判官の補足意見としては「情報を摂取しない自由」を含むと消極的な自由を提唱しつつ権利侵害思考を採りながらも、放送法64条1項は違憲でないとした。

ある程度立法裁量が認められている中、このような司法権の限界を垣間見る判決は、立法府を中心に政府と何かしらの繋がりがあるのかもしれない。

放送法が制定されてから半世紀以上にも渡り、時代の多様化が進む一方で、これといった立法措置がなされないまま制度だけが踏襲されていること自体が、国民の感覚との乖離に繋がっているようにも思える。

 

限定解釈や拡張解釈、ひいては放送法改正による受信料の真の公平さを実現できる時は、もう到来しているはずです。

ブログ始めました。

この度ブログ『綴り』を開設しました。

 

フィクションなしのエッセイから法律絡みのコラム。政治学、社会科学、自然科学、法学、倫理学など。

雑談やたまに書評なんかも交えてなるべく自由に、好きなように綴っていけたらと思ってます。

 

不定期更新になるかと思いますが、暇つぶしのツールとしてご覧下されば幸いです。

 

なお、基本的にこのブログでは文面をなるべく自由にさせたい為、語り口調での綴りとさせて頂く予定です。

なるべく失礼に当たらないよう配慮の方させて頂きますが、何卒ご承知下さい。